人気
きいろ
喜びたい。怒りを晴らしたい。哀しみを乗り越えたい。楽しくなりたい。
すべて、感情が動くからこそ、行動が生まれる。
たとえば勉強もそう。
褒められたい、認められたい、知識欲を満たしたい。
「なぜやるのか?」の根っこをたどれば、全部“感情”に行き着く。
しかも感情には“強さ”がある。
強い感情を持った人は、それを原動力にして信念を持った行動ができる。
でも一方で、そのぶん深く傷ついたとき、動けなくなるほどの絶望に落ちることもある。
だから僕らは「感情を抑える技術」を身につける。
でも、それに慣れすぎると、喜びさえも鈍くなる。
心の安全を守る代わりに、行動の熱量も落ちていく。
感情に素直に生きて、激しい幸福と絶望を味わう人生か。
それとも感情をコントロールして、静かな幸福と不幸に包まれる人生か。
もう俺は“素直な側”には戻れない。
全て理性的に考えすぎてる。
せめて、幸せを感じる時だけは、この思考のスイッチを切れたらいいのにと思う。
あなたは感情とどう向き合っていますか?
#人間関係 #うつ病 #悩み相談 #哲学 #占い
3B(さんびー)
平日 : 3B 仕事(激務)、嫁 育児・家事
「お互いの大変さを理解できない事を理解しよう!」
以上となります
#哲学 #3B論 #毎日育児する大変さは仕事をしている3Bがその立場になれないから理解できない #育児 #家事
きいろ
1. 考え"ず"、幸せな人
2. 考え"て"、幸せな人
3. 考え"て"、不幸な人
4. 考え"ず"、不幸な人
この順番の通り、幸福度は下がっていく。
理由はシンプルで、「考える=未来を予測する力」だから。
考えない人は、嬉しいことが起きた時、未来を期待してない分だけ感情の振れ幅がデカい。
つまり、想定外のほうが幸福をより"素直に喜べる"。
でも逆に不幸も想定外の場合、より絶望を感じる。
一方、考える人間は、いいことも悪いこと"もある程度読めてしまう”。
だから驚きが減って、幸福の純度も下がっていく。
でも一度“考える側”に行ったら、もう戻れない。
戻ったふりはできても、心のどこかで冷静に自分を見てる自分がいる。
考える側は一生純度100%の幸福も味わえないが、絶望もない。
あなたはどう生きる?
あなたは今、どの位置にいますか?
#人間関係 #うつ病 #悩み相談 #哲学 #愚痴
せつ
#哲学
やーすㅤㅤㅤ
無知とは
有限のものを無限だと思うこと
不浄のものを清浄だと思うこと
不幸を幸福と思うこと
非自己を自己だと思うこと
有限と無限
この世のことごとは、変化していくもの
変化しないものなんかないんだよね
感覚・思考・肉体・環境・家族・人間関係など
ずっと変わらないものなんか無いんだよね
#ヨーガスートラ #ヨガ #哲学 #朝焼け #GRAVITY写真部


ざびえる本舗
IVEのウォニョンさんが紹介してた本!
ショーペンハウアー買ってみた[びっくり][びっくり][びっくり]
#kpop #哲学



みく🌸
よろしくお願いします。


ばー
#04 #哲学
もっとみる 
新着
なすび

ねこぼうず
回答数 13>>
①哲学を定義すること自体が哲学問題になる。
②善く生きるための知を探究する活動である。
以下、それぞれの観点を説明します。
🎓【①の観点】
哲学を一つの学問として規定することは簡単ではありません。
学問は一般に、対象・問題・方法によって規定されます。しかし、哲学の対象や問題は非常に多様で、他の学問と重複します。「観察・実験に頼らない」や「言語・概念を分析する」といった方法も、哲学に固有のものとは限りません。
哲学そのものを研究対象とするメタ哲学という分野が存在するほど、哲学の本質を捉えることは難しいのでしょう…😓
🌱【②の観点】
一方、哲学を一つの活動や生き方として捉えるならば、ある程度の道すじが見えてきます。
Philosophyの語源は「知を愛すること」。哲学が探究してきた知には、世界を理解するための知だけでなく、善く生きるための知が含まれます。
その重要性を説く人物の一人がソクラテスです。彼は自分が知っていると思っていることを問い直し、徳や正義をめぐって人々と議論することで、より善い生き方を探究しました。質問者さんの先生が仰っていた「ソクラテスがやっていたようなこと」とは、こうした知の探究なのではないでしょうか。
ただし、善く生きるための知を探求することと、実際に善く生きることは区別すべきだと思います。なぜなら、徳や正義を理解したからといって、必ずしも善く生きられるとは限らないからです。ここからさらに、「思索や議論は善く生きるための適切な方法か?」「哲学はそもそも善く生きることをめざすべきか?」と問いたくなります🤔
※もしソクラテスを哲学者の模範とするならば、哲学者とは必ずしも大学で研究したり教えたりする人だけではないでしょう。自分の考えを問い直し、より善い生き方を探究する人も、広い意味では哲学者と呼べるのかもしれません。
#哲学 #生き方 #ソクラテス

たくひら
「死にたい」という人生相談を何度も受けてきて、ひとつ思うことがある。
「死にたい」という発話と「死にたい」と思うことと「死」を望むことと「楽になりたい」「苦痛から逃れたい」という感情とには互いに重なることがあっても、必ずしも同じものではない。その表現でそういうことが言いたいの??と話を聞いているうちになることがあるほど違いがあることすらある。
さて、今回はその話をしてもいいが、もう少し哲学的な話をしようと思う。
「死とは観察できるのだろうか?」ということである。
私たちは日ごろ、まぁ毎日やってたらちょっと怖い部分もあるが、死というものを間近に感じようと思えばいくらでも感じられる。
例えばニュースを見れば、今日もどこかで必ず誰かが死んでしまっている。これはとても悲しいことだ。
創作物では、戦争物であったり推理物であったり、なろう小説系でもなんでもそうだけど、結構たくさん人は死んでいる。
あるいは終末病棟に行ったら人は死ぬ。お寺では今日もどこかでお経が唱えられている。個人の仏壇を前に今日も誰かが故人を偲び祈っている。
しかし、私たちは幸か不幸か、死を「経験」できない。自分の死が完了した状態を経験し、振り返ることはできないといったほうが正確か。
私はこの「経験」を「第一人称的認識」とか呼んだりするが、よくよく考えてみると私たちは「自分の死を振り返る」ということはできない。
そんなことはない想像できる!と思うかもしれない。例えば、死というのは五感が失われるものだ!としよう。しかしこれが果たして本当に死であるかというものは、死を経験して語ってくれる人がいない以上、そういうものかどうかはわからない。もしかしたら死んだら真っ暗ではなくて真っ白かもしれない。これだって、生きているときの感覚を死に持ち込んでいる。
つまり、私たちは「死を想像する」「死を想う」ことは出来ているのかもしれないが、果たしてそれが正確に「死である」と言い切ることが絶対的にできないでいる。その想像が、正しい死なのか間違っている死なのかすら、突き詰められないでいる。
とすると私たちはいったい何を語っているのだろうか。
「医学的な死」→生命機能の不可逆的な停止など
「死への恐怖」→将来の喪失や苦痛に対する感情
「死にたいという欲求」→生の終結に関する願望や判断
「他者の死」→他者の生命活動の終結と、その人との関係の変化
「死後の無」→自分が存在しない状態についての概念
これらは語りえる。死についての正当な知識や経験といえるだろう。しかし、そのことによって、自己の死の「一人称的な経験内容」まで理解したと言えるのだろうか。正確に言うと「自己の死」を語るためには「何を語ったらいいのか」がわからないでいる。「一人称的な死の経験が存在するかどうか」以前に、そもそもとして「それが存在するための条件」がいまいちよくわからない。私の感覚としては、それは掴もうと思っても滑り落ちてしまうような、そんな不思議な認知不能な何かを感じている。
私はこの認知不能な部分を以て、「私たちは生理構造上、自らの死を語れないように死の認識に何かしらのブレーキがかかっているのではないか?」とすら疑っている。つまり私たちがなぜ「死」について明確に語りえないかというと、それは認識論や存在論的に「死」を人間が捉えきれない以上に、何か別の生理的な反応・構造としての制約が発生しているのではないかということ。とはいえ、これは当然神経系や脳科学といった検証が必要となる仮説ではある。
しかし、「死」を語ることの意味がないわけではない。ガダマーが主張したように、言葉には「経験」「歴史」「文脈」「他者」「思い」その他もろもろが乗っている。それらは固定された背景として存在しているだけではない。人と人とが語り合う中で、言葉の意味も、それを理解しようとする私たち自身の認識も、変化し続けるものなのだ。「死」にだってその人の思いが乗っているのだから、それを以て語る意味を見出すことはできる。
だが、その死がリアリティのあるものであるかは別の話だ。そしてそのリアリティとはいったい何についてのリアリティであるのか。これも区別が必要だろう。
死を語るということは、とても大事なことであるし、それ自体が救いになることはある。
一方でその語る構造上、いったい何を語っているのか?どこに話の主軸があるのか?については、死というある種の極限の話題であるからこそ、敏感になるべきではないかと思うのだ。
私たちが死について語るとき、そこで語られている恐怖や悲しみ、苦痛や願望は、紛れもなく現実の経験である。しかし、その経験が現実であるということと、その経験によって死が正確に捉えられているということは、必ずしも同じではない。だからこそ、死について語るとき、私たちは何を経験し、何を認識し、何を判断しているのかを区別しておきたいのである。
#死
#死を語る
#哲学

はるる
#フランス哲学#文学部#プレゼン#哲学#ポスト構造主義

えれじ
強さと弱さってなんでしょう?
環境に適応して生き残る力もそうですし、体が大きい、力が強い、社会的権威が高い
という様なことでしょうか。
例えば野生動物であればライオンとシマウマの強さの違いはなんでしょうか?
ライオンは捕食者として力の強さがあり、群れで狩をします。強さ故にサバンナで悠然と佇んでいられます。
一方でシマウマは被食者として足が早く、感覚器官に優れ、情報をより早く、たくさん収集し、危機察知能力が高いと言えます。捕食者を先に発見し、素早く危険を回避します。
人間関係だと、雇用者と被雇用者、リーダーとメンバー、鈍感な人と繊細な人、親と子、など様々な社会や家庭環境でパワーバランスに差が生じます。
あなたが望むのはライオンの強さでしょうか?
もちろんライオンのように強い人もいるし、それを望む人もいるでしょう。
けれど実際は、僕を含め多くの人は弱い個として生きているのではないでしょうか。
また弱いからこそ、情報を収集し、空気を読み、危険を回避、つまり気付けるという、弱さ故の強みを活かせるのだと思います。
人の痛みがわかり、寄り添える強さも、弱さを知っているからこそ真価を発揮できるのだと思います。
弱さのネガティブな面だけを見ると、被害者意識に陥ってしまいますが、弱さを受け入れて、その強みを知れば、この弱さもずいぶん自分を助けるために頑張ってくれているのだなとわかります。
人が成長する鍵は、結局自分の弱さです。
その弱さと如何に向き合ってきたのか。
強いとそもそも気付けませんし。
#哲学 #強さと弱さ #心の成長

よしあき
#哲学
#幾何学
#フッサール
#理念体系の一義的な共通理解
また面白くなってきました(*^^*)







chiffonꕤ︎︎·͜·
あぁなったら
こうなったら
こうしなきゃ
ああなれない
今でない時間のことを考えている
それは、存在しない時間に人生を奪われている
行っている活動の内容は変えなくて良い
今やっていることを『茶の湯』をやってるかのように、ひとつひとつ丁寧に行う
仕事でも家事でも、『いつまでにやらなきゃ』
『明日もやるから』と思うから苦しい
『今』という時間にやってきた『観光客』みたいな気楽さで、それを物珍しいもののように集中してみる
きっと『今にある』ということがどういうことか分かってくる
#今を生きる
#マインドフルネス
#哲学
#日常の気づき
#フェリファブ哲学

たくひら
いや、確かに報告会が面白い人がいる。これホントにいるんだよ。もうね、人生が面白いやつがいて、これはもう何話してても面白いwなんというか、雑談系Youtuber/vtuberとかにもいるよね。なんかこう、経験の質がそもそもちげぇよこいつwみたいなそういう話。ホントにそれ現実??みたいな。んで、これは目指そうにも目指せないというか、これやるには教養とか目線を変えるみたいなことが必要なので、本を読む・たくさん経験する・いろんな情報を仕入れるみたいな感じでとにかく時間がかかるんよね。
んで、報告会じゃない「話」ってのが重要で、この「話」が面白くないタイプが一定数いる。で、この「話」が面白くないタイプ、だいたい8割型、掘ると面白いんだよ。掘ってもどうしようもない人もいる。これは単純に経験が足りないので本なりなんなりとにかく毎日新しい情報を入れ続けるしかないんだけど。でも、掘ったら面白いやつには希望がある。
「話」に「感想」か「考察」を入れる。
これだけで良い。本当にこれだけで良い。で、これで話が面白くならない・膨らまないのであれば、これは聞いてるやつが悪い。ちゃんとそれは話題拡張のフックなんだから、引っ張り出してやってくれ。逆説的に言えば、この「感想」か「考察」を引っ張り出さない人は、基本的に相性悪いんだなって考えれば良い。そうすると「私は話が面白くないから嫌われたんだな」じゃなくて、「この人は私にあんまり興味がなかったんだな」に変わる。そうするとあなたが面白いか面白くないかはどうでもよくなり、相手の問題に変わる。だから、まずは「話」に「感想」か「考察」を入れる。これで相手の反応が変わるのであれば…おそらくあなたは話が面白くないのではなく、掘ったら面白いタイプ。それは大事にした方がいい能力だよ。そして、このタイプは本当にいっぱいいるから大丈夫なのさ。
まぁこんなことをよく考えますね。
#哲学
#コミュニケーション
#話し方

えれじ
僕は人生というのは物語だと思っています。
主人公はもちろん自分自身です。
死の間際に振り返った時に、この物語は、他の誰にも描けない僕自身の物語だったなと思える人生を送りたいと望んでいます。
いつも平坦で淡白な、トラブルのない、安定しているだけのドラマの起きない物語って、それはその人にしか描けない物語と言えるのでしょうか?
小説なら退屈過ぎて読めませんね。
もちろん色々起きれば、その時は大変だし、苦しむし、傷つくこともあります。
物語というのはドラマがあるから面白いし、そこに主人公の成長を感じることで深みも出るというものではないでしょうか?
物語なのだから、ドラマがあって当然と、はじめから分かっていれば、良いことも、悪いことも、私の物語を彩るドラマとして起きているのだなと思え、起きる出来事の受け止め方も、見え方もまったく違ってきます。
もちろん結末はハーピーエンドとは限りません。
人生を受け入れる姿勢の積み重ねが、その人の生き様として現れるのだから、どんな結末であれ、受け入れられる自分でありたい。
これが私の人生と受け入れる姿勢が決まると道は開きはじめます。
後悔しても過去は変えられないし、自分から逃げることはできません。
自分の人生の責任は自分にしか取れないのです。
これからの人生、たった一度の物語なら良い時も、悪い時も存分に味わって、肥やしにしてやりましょう。
#哲学 #人生は物語 #ドラマは起きるもの
もっとみる 
